詰将棋とものをつくること

私はとある懸賞サイトに登録している。
その懸賞サイトには、電化製品や現金、宝くじなどいろんな懸賞品がある。
収入が(少)無いので、当たれば少しでも生活の足しになるだろうと利用している。
10年以上も利用しているのだが、残念なことにまだ一度も当たったことはない。
本当に当選者はいるのか? 同じ商品がローテーションのように懸賞に出てくることがあったりして、まさかカラ懸賞なんじゃないかと疑いたくなることもあるが、それはまた別の話。

その懸賞サイトには、詰将棋ミニゲームがある。
一日一問。三手詰めから七手詰めがランダムに出題される。
解くまでに数分。時間がかからないので、頭のトレーニングにちょうど良いだろうとここ最近毎日やっているのだが、今日詰将棋を解いていてふと思い浮かんだことがある。

詰将棋の最初の一手——、それが正解だということは最後の詰みに行き着くまでわからない。
もし最初の一手が間違っていたら、また初めからやり直すことになる。正解が見つかるまで何度もだ。
面倒臭いことだが、そうする以外に方法はない。
これは頭のいい人でもそうなんじゃないだろうか。
天才的な将棋の才能がある人でも、詰めるまでの手順は一手ずつ考えて、不正解ならまた考え直すはずだ。

そう考えていると、ものをつくることにも、この詰将棋の考え方が当てはまるんじゃないかと思った。
例えば小説を書くこと。
一発書きで小説が完成することはない。そういったことができてしまう天才がいたり、偶然があるかもしれないが、稀である。ざらではないはずだ。
ざらなのは、どこか歪で納得がいかないくて、書いては考え消しては書いてを幾度となく繰り返し完成させていくんじゃないだろうか。途方もなく面倒なことだ。

この途方もない試行錯誤の繰り返しは、詰将棋とものをつくることに共通しているように思う。どちらも一歩一歩考えては失敗することをうんざりするほど繰り返す。
しかしその一歩一歩は無駄ではない。不正解を出しては潰し、正解に近づいていく。それは確実に正解に近づいていく。

普段、完成したものばかりを見ていると、その裏にある完成までの道のりを想像することはない。そして時に、簡単につくられたものだと思ったり、才能がたやすく事を成しているんだと思ってしまう。
しかし、そんなことはなく、詰将棋のように一手一手、地道に進んで完成にまで漕ぎ着けているんじゃないだろうか。

今、何かをつくっていて、行き詰まりを感じているなら、一つこのように考えて見るのもいいかもしれない。
「その試行錯誤は無駄ではない。確実に完成へと近づいていっているはずだ。」
そう考えてみると、諦めないでやれるような気がしてくるのではないだろうか。

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