言葉はイメージで覚えるもの

いまではそんなこともないが、最近までわたしは長襦袢という言葉をみると、思考が止まっていた。
長襦袢は和服用の下着のことで、かんのうしょうせつなんかを読んでいると、長襦袢と白い内腿がちらりと見える――なんて描写があったりする。
官能的で気分を盛り上げてくれる描写なのだが、わたしの場合、長襦袢をうまくイメージすることができず、正しい襦袢をイメージしようと、いったん思考が停止してしまっていた。せっかくの情緒も台無しである。

なぜ、わたしは長襦袢をうまくイメージできなかったのか。その原因は、キン肉マンにある。
キン肉マンは、わたしが子供の時分に流行った少年漫画だ。言わずと知れたことだが、漫画雑誌の最高発行部数を記録する少年たちのバイブル週刊少年ジャンプで連載され、キン消しといったヒット商品なども生み出した怪物漫画だ。(キン肉マン - Wikipedia
多分にもれず、わたしもキン肉マンを嗜んでいた。コミックスは全巻そろえたし、ガチャガチャで取れるキン消しも集めていた。兄弟でキン消しの取り合いになって脱臼したこともある。それくらいキン肉マンに熱狂していたわけだ。

このキン肉マンのなかに、肉襦袢というものが出てくる。
悪魔超人との対戦に苦戦するキン肉マンの助っ人として現れたモンゴルマンラーメンマン - Wikipedia)が正体隠すために体格の大きく見える筋肉スーツを着用していた。試合を終えた彼が去り際にその肉のスーツを脱ぎ、「ゲッ…肉じゅばん!!」とキン肉マンが驚くのである。

わたしは、このシーンで襦袢という言葉をはじめて知った。だから、わたしが襦袢という言葉をみると、まず先にラーメン……もといモンゴルマンとともに脱ぎかけの肉襦袢のイメージが浮かんできていたのだ。下着としての襦袢がイメージできなかったのである。

わたしの襦袢という言葉に対するイメージは、ラーメンマンの着けていた肉のスーツとして固定されてしまっていた。言葉はイメージで覚えるものなんていうが、この経験から本当にそうなのだなと実感する。

この襦袢を記憶するきっかけに関しては、わたしが肉襦袢と襦袢の区別ができなだけで、間違った覚え方とは言えない。しかし、幼少期に触れるものは慎重に選んだほうがいいだろうという庭訓が得られた。生まれてはじめて触れたものが、人生においてのそれの基礎となる。子供にどんなモノを与え遊ばせるか、後々大変な思いをしないよう、親は気をつけたほうがいいだろう。

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